みなさん、こんにちは!
学習塾ちから鼓舞です!
もういよいよ秋が来ますね。
受験生は、息抜きと集中した学習を上手く使い分けて、
合格を一歩リードしましょう!
さて、本日は新1万円札の肖像画に選ばれた渋沢栄一さんについて
キーポイントを少しお話ししたいと思います。
受験問題に出る可能性大!!
新札の肖像画となる人が決まってから、
・渋沢栄一(1万円)
・津田梅子(5千円札)
・北里柴三郎(千円札)
について、
過去の歴史の問題でガッツリ問われています。
今年は新札に切り変わった年なので、
引き続きガッツリ聞かれる可能性があります。
旧札の
・福沢諭吉(1万円)
・樋口一葉(5千円札)
・野口英世(千円札)
と合わせて、6人の偉人について、
何をした人かしっかり確認しておきましょう。
今日は「渋沢栄一」編です。
渋沢栄一の生い立ち
まず、渋沢栄一がいつの時代の人か、
知らない中高生も多いのではないでしょうか。
渋沢栄一は1840年(天保11年)2月13日、埼玉県深谷市(めちゃ有名な深谷ねぎのとこ)出身です。
1840年!天保!!なんと、江戸時代に生まれた人です。
1868年〜明治時代が始まりますから、明治が始まる頃には28歳であるということになります。
がっつり江戸時代を生きた人です。
ちなみに、
前一万円札の肖像画であった福沢諭吉は
1835年(天保5年)1月10日生まれですから、
渋沢栄一より5学年しーじゃー(先輩)です。
学問が好きだった渋沢栄一は、
幼い頃から『論語』を読んで育ったそうです。
『論語』は”人間の道徳”を説いた、
孔子とその高弟子の言葉を記録した本でしたね。
ゆえにこの『論語』の考え方が、
渋沢栄一の考え方や生き方に大きく影響を与えています。
元々、実家は藍の商売をしていました。
13歳で藍の買い付けを1人で行い、父譲りの藍の目利きの才能を発揮したそうです。
商才があり(ビジネスの感覚が鋭く)、勉強熱心で頭が良い幼少期だったことがうかがえます。
青年期〜一橋(のちの徳川)慶喜に仕える
これだけ努力家で頭の良かった栄一ですが、
農家の子どもだったということで、
差別や様々な辛い目にもあったそうです。
その時に少し政治にも興味を持ち始めたそうです。
(江戸幕府に対しての不満、勤王志士たちとの交流)
今回は概要なので、
途中をだいぶぶっ飛ばしますが、
尾高惇忠と横浜焼き討ち計画※を試みてたり(実施はしなかった)、
※その時は討幕派だった
なんだりしながら、
その後、一橋慶喜に仕え、
農民兵を募集する係をやったり、様々な仕事をしました。
そうすると、まさかの、思いがけず、
慶喜が征夷大将軍(将軍)となったことにより、
あれだけ討幕を試みていた栄一は、真逆の立場の”幕臣”(幕府の家来)となったのです。
運命を変えたパリ万博
管理貿易(近年まで鎖国と教わっていたもの)の規制が緩くなり、
日本人が外国に渡航できるようになった後、
日本が初めて参加した万博がパリ万博です。
この時、27歳の栄一は、
慶喜の弟の昭武に同行する使節団の一員として、
万博開催地のパリを訪れます。
ちなみに、この時に語学を教わったのは、
みなさんも歴史で習ったシーボルトの息子のアレキサンダーからだったそうです。
この渡欧中にフランスの鉄道に乗ったり、
ヨーロッパ各地を視察したことが、
栄一の人生に大きく影響を与えます。
後に、栄一の回想録では、
フランスや欧州各国で体験した中から3つの印象に残った内容を挙げています。
① 徳川昭武がベルギー国王に謁見した時に、ベルギーの製鉄所を見学したことを話すと、
ベルギー国王から、
「製鉄事業の盛んな国は栄える。
日本も将来、鉄を盛んに用いるようになったらベルギーの鉄を利用するように」と話された。
この様子を見て、
「西洋の君主は妙なことを言う。自国の鉄を商売にする」と驚くと同時に感嘆した。
② フランスで徳川昭武の世話役を務めた、
陸軍中佐ヴィレット(日本の武士にあたる)と銀行家フリュリ=エラール(日本の商人にあたる)との
やりとりは対等であり、官民の差別がなかった。
日本では「官尊民卑」であると感じていた栄一は、これを打破したいと考えた。
③ パリの会社は一般大衆から資金を集めて、大規模な事業を営んでいる。
一人一人の投資金が少なくても、数が集まれば大きな資本になる。
すなわち「合本(がっぽん)組織」に、栄一は興味を持った。
その他に鉄道、新聞、病院の見学など、社会事業の原点を見ている。
特に③は、
この後に栄一が日本で初めて株式会社を設立することに繋がります。
幕末と明治政府勤務時代
フランスにいる際に、新聞で、
幕府が大政奉還したことを知ります。
これによって昭武が水戸藩を継ぐことが決まり、帰国命令が出たため、
1868(明治元)年に栄一も帰国します。
しばらくは慶喜のいる静岡に滞在しましたが、
1870(明治3)年に新政府の大隈重信(大蔵大輔兼民部大輔)に説得され、
大蔵省の租税正となり、東京での生活が始まりました。
その後、明治政府で
・郵便制度・廃藩置県・地租改正・戸籍法
・新貨幣(円)・鉄道開業・富岡製糸場・国立銀行条例
など近代化に関わるほとんど全ての仕事に関わります。
民間へ
4年間ほど明治政府で勤務していた栄一ですが、
大隈重信・大久保利通派閥と井上馨・渋沢栄一派閥が揉めたこともあり、
33歳で大蔵省を辞めます。
その後は政治の世界(国家の仕事)からはほとんど離れ、
生涯民間の育成に尽力します。
栄一が生涯関わった会社は枚挙にいとまがありません。
大蔵省を辞めた33歳から実業家を引退した76歳までの間に、
なんと500以上の企業の設立に関わりました。
ここでは、
特に有名な、聞いたことがない人がいないレベルの会社のみ、
列挙していきます。
・第一国立銀行(今のみずほ銀行)・王子製紙(紙幣を刷る紙を作るため)
※Bankを訳して”銀行”という日本語訳に決めたのも、栄一だそうです。
・東京ガス・KDDI
・東京海上・東京証券取引所
・キリンビール・サッポロビール
・帝国ホテル
・東急電鉄
・一橋大学・東京経済大学・日本女子大学・二松学舎大学・東京女学館
・日本赤十字・聖路加病院(初代理事長)
数々の社会貢献と門下生
栄一は日本赤十字を始めとする約600の社会事業に貢献しています。
そんな栄一を慕って門下生が続々集まり始めます。
最初は息子と同居人たちで集まって勉強会をしていたことが始まりですが、
栄一がどんどん実績を積むにつれて、
栄一のもとで勉強したい!という若者たちがどんどん集まって、
あっという間に数千人の門下生になっていたそうです。
この集まりは「龍門社」と名付けられます。(現在の渋沢財団)
(名付け親は、敦忠だそうです。笑
そうです、横浜焼き討ち事件を一緒に計画した、あの敦忠です。笑)
そして91歳で亡くなる前に、
遺産相続で家族が揉めないように対策をしていました。
それは持ち株会社を作って家族それぞれに分配するというやり方でした。
しかし一般的な財閥のように、
一族に利権を牛耳らせるために株式の保有数を高くする、
などどいうことはしていませんでした。
戦後にGHQが財閥解体をした際、
最初は指定財閥に入っていた渋沢財閥は、
会社の形式上は財閥の形をとっているが、一族に分配しているパーセンテージが少なかったため、
指定財閥から外すことになったそうです。
(しかし他の財閥に気を遣って潔く解散したそうです。)
このような栄一の功績から、
2度に渡りノーベル平和賞にノミネートされているそうです。
そして、約100年後の今年、新1万円札の肖像画となったのです。
これだけ業績がすごい渋沢栄一が、
今まで何度もお札の肖像画の候補に上がっていたにも関わらず、
今回までずっと選ばれなかった興味深い理由については、
今後、授業で直接お話しすることにします。
自叙伝『論語と算盤』
そんな渋沢栄一が一番大切にしていた理念について、
最後にご紹介します。
「道徳経済合一説」
・・・「道徳」と利益を求める「経済」を両立させることが大切
利益をずるいやり方でとると、それは絶対に長続きしない、
しかし道徳だけを重んじ、利益を全く求めない経済も長くは続かない、
“社会のため、国にためにもなっている利益の出し方が、良い経済だ”ということです。
これは論語からきている考え方だそうです。
特にビジネスをしている人にとっては、
感銘を受け、または耳が痛い、教えかと思います。
塾長もこの言葉に勇気をもらい、背中を押されたような気持ちになりました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
名前は聞いたことがあっても、
何をした人か詳細に言えない人も多かったのではないでしょうか。
今回のトピックスを読んで、
受験対策だけでなく、
少しでも見識が広がってくれていれば、幸いです。
そして少しでも渋沢栄一に興味を持っていただけた方は、
ぜひ、『論語と算盤』も読んでみてください。
今後は日曜限定で、
「学校では教えてくれないシリーズ」の講演会を隔週で行うことも検討しています。
※塾生とそのご家族は参加無料、
ビジター参加は1講演1000円の参加費用をいただく予定です。
・ただ言われたことを最低限やるだけではなく、
自分で考えて行動できる人になって欲しい、
・物事や言葉を”知っている”ということは自分の身を守り、人生を豊かにする、
ということを伝えたい、
そんな想いで、これからも、ちから鼓舞は尽力して参ります。
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ぜひ一度、お問合せください。
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たくさんの生徒さんと出会えることを、
楽しみにお待ちしております。